なんでこの人はこう言うのかな? この行動の背景には、何があるのだろう? そういうことを考えるのが、おそらく私は好きで。 いつもどこか目の前に表れている、人の言動の背景を考えている部分があります。 言葉を発するタイミング、選んだ言葉そのもの、を見たり聞いたりしていると、 うかがい知れることがたくさんあります。 たとえば、あるワークショップに参加した際。 初めてお会いする方が、最初の自己紹介でこう話していました。 「私は、離婚を決めるためにここに来ました」 この方は、離婚を今はまだ決めていないのだな、と。 迷っているから、離婚やパートナーとの関係に対して、自分に今何があるのかを 時間をとって考えよう、という意思を持ってここに来た。 私はそう思っていたのですが、その後話していると、もう離婚するつもりで 弁護士の手配など、いろいろ現実的な手続きを進めてもいる様子。 ワークショップをご一緒した最後に、その方は 「もう一度パートナーと話をしてみます。その勇気がなかったことが今回わかりました」 と仰っていました。 また別の時に、普段あまり文句や愚痴を言わずに仕事に取り組んでいる人が、珍しく 「もう疲れた、もうやりたくない。もう嫌だ」と言っているのを聞きました。 疲れた、やりたくない、ではない。 そこには普段仕事に取り組んでいること、「もう」と何度も言っていること、から、 ただの疲れた、やりたくない、ではないとわかります。 その人がその仕事に向かう意欲、そこから得られるもの、のバランスとして 負担だと感じるボリュームや耐えられる期間をついに超えてしまった、ということ なのでしょう。 でも、バランスとして負担が大きいとその人が感じていることを、職場の方は もちろん、ご自身も知らなかったようです。 「もう疲れた」なのですね、とだけお返しすると、驚かれたように、 初めて自分がそこまで負担だと思っていることに気づいた、と話していました。 もちろんこれらは、外からうかがいしれる可能性のひとつであって。 本当にどのように感じているのか? それら起きていることに、どのように相対していきたいのか? は、ご本人に尋ねてみなければわかりません。 尋ねても、その時にはご自身もわからなくて、答えを出すのに時間がかかるような 類のこともあるでしょう。 ただ、人が無意識に使っている言葉。とっている行動。 その無意識の選択の一つひとつには、 それらの今起きていることに、どのように相対しようとしているのか? へと向かう、小さな兆しがいつもいつも表れているのだな、と思っています。
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