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欲しいのは、カーテンではなくて

先日、カーテンを頼んだ。 自宅にひとつ、規格よりも大きいために既成のカーテンだと幅が足りない窓がある。 夫と話をして、オーダーしようか、ということになって。 オーダーカーテンは既成のカーテンを買うよりももちろん高くて、でもその分ぴったりのものができる。

どれにしようかと数あるカーテンの中から迷いながら、リネンのターコイズグリーンのカーテンが目に留まった。 私の部屋はそれにしよう、と、楽しみに。


カーテン屋さんに、床まである窓のカーテンの場合は、裾はぴったりよりも1cm短く。 床までは窓ではない、という壁にある窓の場合には、ぴったりより15cm長くするとよいですよ、と言われていた。

頼んだ時は、カーテンの他にもいろいろ決めなければいけないことがたくさんあって、 夫も私も忙しくしていた。 そのたくさんの決めなければならないことの中に、カーテンの発注は埋もれていて。

どちらがやってもよいことだったけれど、その時は最終的にどれにするか話しながら、夫が数値を入力し、注文のボタンを押した。

買ったのはリビングと、私の部屋と、もうひとつ、全部で3か所のカーテン。 リビングのカーテンは1cm短く、他のふたつは15cm長く。

20日ほど待ってカーテンが届いた時、私は不在にしていた。 届いたよ、と携帯に夫から連絡があり、帰るとすでに3か所にカーテンがかかっていた。 リビングのカーテンは1cm短く、私の部屋ともうひとつの部屋は、15cm長く。 ……だった、はずなのだけれど。 届いたカーテンは、どれもぴったりだった。

いくつの尺で頼んだのだろう? 注文が間違っていたことはない? と 夫に確認してもらうと、発注した長さが間違っていた。 窓枠の長さを測り、1cmのことも、15cmのことも彼の頭にも入っていたけれど、 実際にはそのまま窓枠の数字を入力してしまったらしい。

(なんで間違えるかな! あれだけ1cmと15cmって自分でも言ってたのに!!) (間違っていたならしょうがない、オーダーなんだしあきらめるしかないなぁ) (えーーーーーーーーー、オーダーで丈が短いって、なんでよ…… オーダーの意味がまったくないじゃん……) (なんで私が頼まなかったんだろう、私の方がカーテンのこと気にしてたのに) 3つ4つ、いろいろな思いと言葉がぐるぐるしながら、夫の座っている椅子の横にあるソファに突っ伏して数分。 ふーーーーーーーーー、と、大きくため息をついた。

こういう時に、私が普段いちばんよくやるのは、「なんで間違えるんだ!!」と、夫の間違いを責めること。 突っ伏している間、今回ももちろんそれが一番最初に大きな声として聞こえていた。 ……でも、夫も悪気があってやったわけじゃない。 今回は、間違いを責める言葉は飲み込んだ。 間違いを責める言葉を飲み込んだ時、次に私がよくやるのは、 「しょうがないよね、悪気はなかったよね」と、諦めを口にすること。 諦めを口にして状況に理解を示す風を装いながら、その実、相手に罪悪感を覚えるように仕向けてもいる。 ……でも、本当に夫も悪気があってやったわけじゃない。 今回は、諦めを口にする言葉も飲み込んだ。 諦めを口にして相手に罪悪感を覚えさせる、を飲み込んだあと。 ようやく、「私は今何を感じているのか」がやってくる。


しょうがない、と思えていない。 楽しみにしていた。 とっても、とっても、残念。悲しい。

そして、他にたくさんのやることがある中で発注してくれた夫にありがとう、と思ってもいる。 私も、彼を責めたいわけではない。 私と度合いは違っても、一緒に楽しみにしていたよね、とも思っている。 その楽しみが、思っていた形でかなわなかったことが、心から残念だ。 そしてそれを、ただ諦めるのではなくて、夫と共有したい。

「………………………残念だなぁ。とっても」 「……楽しみに、していたんだよね。カーテン」 「あなたがプロジェクターで壁に大きくPCやゲームの画面を投影したい、ってプロジェクターを楽しみにしていたのと、たぶん同じ感じでさ。楽しみにしてたの、届くの」 夫に言いたいな、と口にした言葉は、それだけ。 それだけ伝えると、ソファから起き上がって。

今回カーテンを頼まず今後カーテンをどうするか考えようとしている出窓や、少し窓の短い場所とカーテンを交換できないだろうか、とか、今からできること、をひととおり家の窓を見ながら考えた。 その結果、やっぱり難しそうだな、と。 しばらく経ってもどうしても気になるなら、もう一度お願いするとかかなぁ、、、というところまで考える頃には、気持ちはだいぶすっきりしていたように思う。 30分ほどしてから、夫が私の部屋の扉を開けて、 「カーテンなんだけどさ」 と話しかけてきた。 「ごめん。あっちの部屋の窓の方が長さが短いから、このカーテンをあっちのにして、あっちのはまだ頼んでないところのにして。 ここのカーテンはもう一回頼むのだとどうかな」 あ。夫も同じこと考えたんだなぁ。 私が残念だ、と思っている気持ちを知って、何ができるかを考えてくれたことが嬉しい。 「うん、私も思ったんだけど、幅が違うからさ。あと、カーテンの色も変わっちゃうから」 「いいよ、考えてくれてありがとう。もう一回頼むなら、むしろ今のと気分を変える用にぜんぜん違うのを頼んでもいいかもね」 そんなやりとりをしているうちに、夫がカーテンの数値を誤ったことへのわだかまりはなくなった。 カーテンの長さがぴったりなのは、何も変わらないんだけど。 相手を責めるのと同じように、自分を責めるのも私はよくやる。 でも、責めたところで望む方向にはまったく行かない。 お互いに嫌な気持ちになるだけ、ということも、責めてばかりきた経験上わかっている。 たとえば今回もし夫を責めていたら、今後、私の部屋のカーテンを見るたびに、私自身も夫も嫌な気持ちになるだろう。 長く時間を過ごす自宅に、そんな場所をつくるのは嫌だ。 誤りを指摘することを、責めることを、本当にはしたいんじゃない。 ただ、残念だとか、悲しいだとか、そこに期待していたことが存在していない、という気持ちが私にある。 しょうがない、では片付けられない。 そしてできれば相手にも、その残念さや悲しみが自分にあることを、ただ知ってほしい。 そんな形で表すことができる時、誤りは相手と一歩近づく機会になると思う。 カタログを見て思い描いたカーテンのある部屋は実現していないけれど。 その窓に気持ちよく通っていたらいいと願った風は、家にすっと流れている。

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