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見える世界・見えない世界

家庭、職場、地域、趣味のコミュニティ…… さまざまな場所や関係性の中で、私たちのそれぞれがとっているなんらかの立場、について最近よく考えます。 とくに、 立場が弱い、とされている側から見える世界・見えない世界。 立場が強い、とされている側から見える世界・見えない世界。 その違いと、どんな立場からは何が見えていて、何が見えないのだろう、ということについて。 もちろんそれを考えている私自身にもなんらかの立場があって、

こういうように見えるのではないだろうか、と想像するしかない見えていない世界もあるし、想像もできない世界もある、と思っています。 弱いとされる立場から見える世界は、「弱い立場にない人には普遍的にあるものが、ない」という世界。 何がないのかをある人と比べてよくわかることもあるし、そもそもないことがあたり前で、ないことをどうにかしようと考えることも難しい場合もある。 そして、ないことの苦難を助けよう、ということに反対や批判は少ない。 強いとされる立場から見える世界は、「あると自分を助けるものが、自分にも当然ある」という世界。 お金や、職、住む場所、よい人間関係、価値あるもの、様々な権限、知識や能力、選択の自由など…… 時には、「人よりも多くあったり、人よりも優れていたりすることで、より立場が強くなる」、常に競う世界なのかもしれない。 あるものがある、という状態は、自分自身やそういう環境にいる多くの他の人にとってもあたり前のことで。 普遍的にあるものが自分にもある、という状態に対して感じていることを、自分が気がつく機会も少ないのではないか、と思います。 たとえば、その今自分にあるものを自分が失う不安が本当はある、として。 「普遍的にあるものは、あるのがあたり前」だったり、「人よりも多くあったり、人よりも優れていたり」という状態を目指す中では、そんな不安など自分にはないことにしている、かもしれません。 そして、普遍的にあるものがあるように他人から見える人は、苦難などない、とか、みんなそうなのだから、とか、たいしたことではない、と扱われることも多いのではないかと。 でも、「感じる」とは、とても個人的で多様なものであり。 どのような立場にあっても、たとえ同じような立場に他人から見えても、何を感じているかは一人ひとりまったく違っています。 「たいしたことではない」と扱われ、自分の感じていることをないことにされる。 今、強いとされる立場にある人も、このような大きな痛みを、ずっと抱えているのでは? そしてその痛みを、ないことにするのが当然と強いる社会の仕組みを、私たちはずっと続けてきているのでは? この仕組みを、私たちは今後も続けていきたいのだろうか? そんな問いがあります。

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