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偏愛をめぐる往復書簡 #3



いなさんへ、


こんばんは。素敵なお返事ありがとうございました。


私も読んですぐに書きたいことが頭のなかをぐるぐるして、どう組み立てようスイッチがONになり、いなさんの 「読んだらすぐお返事を書きたくなるやつだ。それも本当に考えてしっかり書きたくなる」の意味がよーくわかりました。


読みながら自分の気付いていなかった引き出しが開いていくような感じで、ニコニコしながら拝読したのですが、めちゃくちゃ楽しいですね、これ。


そして、どうしても今日、3月9日、そう、サンキューの日にのうちにお返事したいという、謎な欲求のもとでこれを書いています。


ーーーーー


さて、偏愛の可能性をどう書こうかと考えたときに、2つの視点が浮かびました。


  1. 偏愛が人や組織、社会に及ぼすインパクトのような「偏愛そのもの」の可能性。

  2. 私が「偏愛と向き合っていくこと」に感じている可能性。


ひとつ目は、ずっと考えてきてなんとなくまとまりつつあるし、読んで面白いのはコッチだろうなぁ、構成的にもコッチだろうなぁ、というのはわかっているんです。ええ。でも、いなさんのメッセージを読んでいるうちに、どうしてもふたつ目を考えたい気分になってしまったので、今回は私の個人的な興味の話です。


私、#1 で偏愛との出会いについて、こんなふうに書いていました。


まわりでわいわいしていたら、徐々に引き込まれて、いつの間にか渦の真ん中にきちゃったような感じです。なのでまだ戸惑いもあるのですが、一方で出会うべくして出会ったんだろうな、という感覚もあったりします。


これはその時の正直な感覚だったのですが、直後に読んだ本にこんな一節があったんです。


選択とは偶然を許容する行為であるし、選択において決断されるのは、当該の事柄ではなく、不確定性/偶然性を含んだ事柄に対応する自己の生き方であるということ。○○な人だから△△を選ぶ、のではなく、△△を選ぶことで自分が○○な人であることが明らかになる。偶然を受け止めるなかでこそ自己と呼ぶに値する存在が可能になるのだと。(太字原文ママ)


これは、哲学者の宮野真生子さんと人類学者の磯野真穂さんの往復書簡をまとめた本「急に具合が悪くなる(※)」のなかで、宮野さんが自身の専門である哲学者の九鬼周造の考え方を引用しつつ書いている部分なのですが、これを読んだときに、たしかに偏愛との出会いは偶然だったけど、巻き込まれる中には私の意志や選択があったな、って気づいたんです。


  (※) あ、お気づきかもしれませんが、往復書簡と言い出したのは、

    この本の影響です。ちょうど読みだしたところだったんです。笑


そもそも、人の好き嫌いって結構あいまいで、そんなロジカルじゃないんですよね。ふとしたきっかけで好きになるし、逆もしかり。(で、なんかそんなんじゃダメな気がして、なんとなく理由や因果を探したり、それこそ、いいとされていることに根拠を求めたり。)


この宮野さんの一節や、いなさんのメッセージにあった「まわりの文脈があってもなくても自分の興味や直観を従うことに素直な状態。」というあたりから、偏愛って「偶然」とその人の「選択」によるものとも言えるのかも、と思い始めています。世の中のもろもろとか関係なく「自分の偏愛」として語れるものは、その人が「自分の中にある何か」にむきあった結果の産物なのかも、と。


ちょっと前まで統計な世界にどっぷり浸っていた反動なのか、ここ最近ずっと非決定論的な考え方が気になっていて。だからこそ、偶然と選択というのが今の私には妙にしっくりくるのかもしれません。


ーーーーー


私、カバが大好きなんですけど、いつからだっけ?とカメラロールをさかのぼってみたら、2011年8月に北海道・石狩のライジングサンロックフェスティバルのあとに行った旭山動物園がきっかけだったことを思い出しました。今や、わたしのデスクはカバグッズに溢れているというのに、そのことはすっかり忘れていたのです。


当時、旭山動物園のカバの展示は他の動物園と同じようなコンクリートの水槽で、水も濁っていて何の変哲もないつまらない感じ。でも、水面にぷかりと見えるカバの背中とか、運よく見ることができた飼育員さんから水をもらう時のグワーと開くおおきな口とか、そういうものになぜか心を奪われてしまい、いる時間のほとんどをそこで過ごしました。あのユニークな行動展示が話題になっていた動物園なのに、カメラロールもカバしか残っていないのです!はたから見たら、もったいない話かもしれないのですが、不思議と大満足でした。


そして、その数年後には、なぜか長崎にあるカバで有名な動物園で、カバに手ずからエサをあげたくなってしまって、ちょっと無茶した旅程を組んで遊びに行き、帰ってきてからはカバのかわいさを人に語り始めます。いま思うと、盛り上がっている私に動画とか見せられた人たちはさぞ困ったでしょうねぇ…。カバのかわいさに共感してくれる人こそ少ないものの、カバ好きとして認知されることで、手元にはカバグッズが増えていき、ますます好きになる。そのポジティブなサイクルがいまも続いている感じです。


と言いつつ、カバのどこがいいの?って聞かれると今でもイマイチうまく説明できなかったりするんですが・・。ずんぐりしてるとこ、とかしか言えなくて。でも大好きなんです。


ーーーーー


まぁ皆が皆こうじゃないかもしれないけれど、こんなふうに、ちょっとした自分の感覚からから始まって、その結果の選択が積み重なって強化されていくのって面白いなぁ、とおもっています。


ふうう。なかなかのボリュームになってしまいました・・・。

ということで力づくでまとめると、私はいま偏愛と向き合うことに対して、「偶然」と「選択」につながる面白さ、可能性のようなものを感じているみたいなんです。


あと、これもかなり個人的なことなんですが、普段の私ってかなり演繹的なんです。なのに、なぜか偏愛に関しては帰納的に、いろんな人の話を聞いて、ひとつひとつピースを倒しながら、自分の頭や感覚で理解していきたい、と感じていて。そこにもなんか未知な面白さを感じています。


そーか、「まだ研究中の身」みたいな感覚だから、エバンジェリストって言われると、くすぐったくなってしまうのかもしれないですね、私。


というところで今日は、質問もなく、ふらりと終わりにしてみようと思います。

ちょっと長くなっちゃったんですけど、これまたなんか偏愛っぽいですよね。笑


2020年3月9日


ずんこより

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