COVID-19によるこの危機にあって、多くの人が大なり小なり難しい状況に直面していると思います。 例えば医療現場やその周辺に関わる人たち。他には例えば安定した職や収入が得られていなかった社会的に脆弱な立場にある人たちへの影響は甚大で、それは、すでに存在していた社会構造上の問題が顕在化している、ということでもあるかもしれません。この分断を乗り越えていくためにはこれまでとは次元も発想も変えていく必要があるのだと思います。
その混乱の日々にあって、私自身も内側が忙しい。色々錯綜というかうごめいている感じ。
誰かを裁きたくなったり、擁護したくなったり、正当化したくなったり、寂しくなってみたり、怖くなってみたり。
一方で、今まであまり自覚的では無かった感覚に気づく瞬間もあります。
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それは例えば、近所の飲食店に対する気持ち。いままでも常連として食事を楽しんでいたお店がいくつもあるんですが、この自粛要請の流れの中で、「そのお店を支援したい」という思いとともに利用している自分に気がつきます。
これまでもある種の愛着をもって利用していたけれど、これまでの「お客」と「お店」という感覚とは違うつながりを今は感じるんですよね。
さらには飲食店の向こう側にいる流通卸や生産者とのつながりにも意識が向くようになっています。自分の目の前に提供されている料理の向こう側。もちろん、産地を気にしたり、銘柄を気にしたり、っていうのはこれまでもあったけれど、それはどちらかというとその場所や銘柄に対しての意識が強く、そこにいる「人」にはそこまで意識を向けていなかったなと。
でも、いまはそんな意識の変化を自分の中に感じるのです。
皆さんはどうでしょうか?そんな変化があったりしませんか?
最近であれば、コロナウィルスで困っている生産者や飲食店を支援しようとする行動も沢山あります。もちろん、お得に買えることが原動力の部分もあるのですが。
いままでもきっとそこにあったのに気づいていなかった「つながり」が感じられる瞬間が増えているってことかなと。
例えばそれは近所のお店で食事をする意味が変容している、とも言えそうです。
支えている、貢献しているという喜び。そのお店を利用することで満たされるものもまた自分の中で変容している感じがします。
例えば、買うという行為も、何を買うのか、どこで買うのか、誰から買うのか、なぜ買うのか。限られた収入の中で自分はどこに、誰に、何に、何のためにお金を流すのか。
意図をもってお金やエネルギーを流すことで、そこにいる人やお店が続いてくれることが、実は自分にとっても、価値や意味のあることだということに気づいた、ということかもしれません。例えば近所で美味しいお料理が食べられる、ということ自体も実はシンプルに自分にとって大切だったってことでもあるんですよね。
「誰かのために」、は本当は「自分のために」になっていたということに感覚的に気づき始めているということかもしれないなと思うのです。
「私」と「お店」が「私たち」にアップデートされた、そんな風にも言えそうです。
実は今のこういったつながりへの意識って、「フェアトレード」や「エシカル消費」と言われるものと同じ質感なんだと思うんですよね。
自分のためだけではなく、届けてくれるすべての人に意識を向けて、その人たちの幸せも同時に願いながらお金を、エネルギーを、流していくこと。そこから得られる喜びや豊かさに意識を向けること。それが自分を満たしていく。誰かのために、という利他は、じつは何よりも利己である、ということなのかもしれません。
この新型コロナウィルスの混乱の中で、私は、そして私たちはそれぞれの「私たち」の概念をアップデートできるでしょうか。
きっかけやヒントはすでに私たちの中に生まれつつある。例えば命を維持する、生きることに難しさを感じている人たちを「私たち」のつながりの中に感じる瞬間。
一方で国境は閉鎖され国と国の間で作られた境界はより分厚くなっているようにも感じられます。人と人の間にも感染拡大防止のための自粛と生きていくための経済的困窮の対立が起きつつあるようにも見えます。さまざまなスケールや立場で分断が現れているように感じられます。
でもつながりの大切さに気づける瞬間もきっとあります。 大切なのはどこに意識を向けるか。どこに意識を向けているかに気づくことなのかもしれません。
このつながっている世界にあって、「私たち」をもしアップデートできたならば、きっとWith コロナの時代はこれまでとは違う豊かさの世界になる可能性もあると思っています。
TOUTENで、そんな感覚を味わえるブランドやプロダクトを紹介したいなーと思ってます。
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